写真提供:田村駒
カヌーは、何千年もの昔から、人々の移動手段や狩猟、輸送の道具として使用されてきました。
スポーツとしてのカヌーは19世紀にイギリスで発祥し、1936年のベルリンオリンピックから正式種目として採用されています。
| 1859年6月2日 | 横浜開港 |
|---|---|
| 1862年 | フランス波止場設置(山下公園・ホテルニューグランズ゙前付近) |
| 1862年8月21日 | 生麦事件の発生 |
| 1863年4月 | 幕府、横浜への英仏軍駐屯承認 |
| 1868年 | 明治維新 |

1858年の日米修好通商条約の締結により、
翌年横浜開港となる。
開港後、外国からの居留民増加。しかし、尊王攘夷の嵐の中、生麦事件が発生。諸外国は、治安維持のため横浜への軍隊駐屯を認めさせ開始(ピーク時約2千人)。これと共に輸入物資増加のため、新たな波止場設置は必要なことであり、また西洋文化の移入が顕著となった。
| 1863年 | グランド ヨコハマ インターナショナル レガッタ開催。 |
|---|---|
| 1870年 | Mc Gregor氏、カヌーによる“CANOE CRUISE”催行。 |
| 1871年 | レガッタレース開催 |
| 1872年 | YOKOHAMA CANOE CLUB設立 |
抑圧された生活の中で、居留民の間で娯楽としてスポーツは当然のことながら盛んであった。様々なスポーツ団体が設立されている。その中で、カヌーが持ち込まれ楽しまれたと推察できる。これらの活動は民間と軍隊の場合に分かれる。
1863年10月5~6日駐屯軍将兵が中心となり、グランド ヨコハマ インターナショナル レガッタが開催。初日が競漕、2日目が帆走のプログラムであった。注目されるのは、プログラムNO.13 COOK’s TUB RACE である。唯一、Single Paddles と書かれており、Oar とは一線を引いている。恐らく “paddle” の単語の最初と思われる。賞金$10-。

出展:THE JAPAN HERLD 861/11/23発刊の外字新聞。発刊者はハンサード(ニュージーランド人)、この新聞は明治後期まで続く。1863/9/17号 No.82に掲載。
この頃のレガッタを残す写真は多分ない。横浜で発行された風刺漫画誌 “THE JAPAN PUNCH”に、レガッタの様子が書き留められている。スチーム船、ローボートである。また他のスポーツも盛んだったことが覗える。

出展:THE JAPAN PUNCH 第1シリーズは1862年より発行され、著者ワーグマン(英国人)が死ぬ1891年まで続く。この絵は、1869年に描かれている。
1870/6/18~19にMc Gregor氏(英国人)が、友人1名とカヌーツーリング催行。
コース:横浜-田名(陸路)-下流(カヌー)-江ノ島(カヌー)-金沢(陸路)-横浜(カヌー)
カヌー:最近本国から取寄せた最新式という記述。帆・橈(カジ)・調理器具も同様。
1865年ジョン・マクレガー(スコットランド)が自身で設計した「ロブロイ号」でヨーロッパの川を漕行探検したのが近代レジャーとしてのカヌーの始まりとなった

A CANOE CRUISE明治3年相模川カヌー巡航記
恐らく本邦初のツーリング紀行文であるから、抜粋しておく。
そして、活字となり現存する“Canoe”という単語の登場は、初めてではないだろうか?
マクレガーの輸入通関書類その他が残っていない現在、そう推察される。
-上流の田名から
江ノ島・金沢を経て横浜に至る-
二人の紳士が、6月18日と19日に行ったカヌーの旅は、読者の皆さんも興味深く熟読して下さると思う。ヨーロッパの種々な海路を長期休暇の折に旅して来たマック・レガー氏(Mc Gregor)が、こういった海路巡航の趣味というものを、始めて我々に教えてくれた。それから、マック・レガー氏とその友人達が設立したカヌークラブが本国(英国)の一般大衆に、そうした旅を詳しく知らせてくれた。
次に述べられているものは、日本でも初めて行われた旅である。筆者のカヌーは最近本国から取寄せたばかりのもので、帆といい、橈(カジ)・調理器具の点でも、最新式の改良が施されていた。
二人の紳士達は、彼等のカヌーをここ(横浜)から約24マイル離れた山々の斜面にある田名(相模川上流)まで、陸路、人夫たちに運ばせ、そこから船の巡航を始めたのであった。
1870年(明治3年)6月18日 田名にて
8時には、我々は音を立てて流れる川辺に降りていた。我々のカヌーが川の支流で待っていたのだ。早瀬が少なくとも約1マイル上流まで続いており、それと闘って川上に向かうには、流れの端まで我々の舟を引っぱって来なければならかった。
やっと我々は長さ約500ヤードの美しい淵についた。その瀞の上を、木が沢山生えている美しい川岸に沿って一漕ぎしてみたら、先刻の辛い労働を償われた気がした。(この気分は今も昔も全然、変わらないのです)
このような、素晴らしい豊かな旅の気分は、予想つく通り、長くは続かなかった。というのは、間もなくさらに烈しい早瀬のすぐ近くに来ていたのだ。そこを乗切る際に、我々はいくつもの渦の中に入り込んでしまった。
(彼等は第1日目は途中まで下り、田名に戻っている。次の日、ツーリングを続けている)午前10時半、ちょうど3時間半かかって、我々は太平洋に着き、カヌーを砂の上に曳きあげた。田名から28マイルと推定された。
切り立った浜に寄せては返す、何か不吉な感じの波の音は、我々に、次の対処をせねばならない大自然の威力の性質を警告してくれていた。そして間もなく、江ノ島へと、約8マイル北東へ、我々の風上に向って出発したのであった。(自然に対する畏敬の念・・・。これも今も一緒です)
出展:The Far East 1870.5.1創刊(横浜)の絵入隔週刊英字新聞
現著者“ジョン・レディー・ブラック(John Reddie Black)”は英国人。幕末に来日し、横浜の『ジャパン・ヘラルド』の記者となり、1870年(明治3)にこれを創刊、1875年(明治8)に廃刊となっている。
第1巻第5号(1870/7/5)の新聞に巡航記録として紹介されている。
※全文はありませんがご希望の方、ご連絡下さい。
1870年6月19日にレガッタ委員会がクラブハウスにて開催。次週のレガッタレースのプログラムについて協議。第13レースにカヌーレース、第14レースにカタマランレースがある。(このレースにも賞金が付いている)第5レースに、6 Oared Military Race がある。このことは、民間愛好家グループと軍隊関係者のグループが小艇が用いていたことを表す。それぞれに活動していたが、双方の話し合いの元この時初めてジョイントイベントをした。クラブハウスは、フランス波止場前(旧東運上所跡地)にあった。

出展:THE JAPAN WEEKLY MAIL 1870.1.22創刊される。発刊者は、ウィリアム・G・ハウェル(英国人)、大正7年『ジャパン タイムス』に吸収合併されるまで続く。
横浜開港後、愛好家がグループ化し皆で楽しんだものと思われる。横浜の本牧から金沢の沿岸にかけては外国人居留民の散策及び憩いのフィールドであった。
木製と思われるカヌーとパドルを持つ居留民の人数は意外なほど多い。明治初期の写真と思われる(不詳)。これらのメーカーは当時の英国資料から辿ればメーカーが確定出来るかもしれない。

横浜開港資料館資料によれば、1872年、愛好家たちによりYOKOHAMA CANOE CLUBが設立されている。同様にいろいろなスポーツ団体が組織化されている。恐らくMc Gregor氏等の写真の人々が中心になりクラブ組織をし、資料2-9の写真のようなツーリングを楽しんでいたに違いない。日本でのカヌークラブとしては、初であろう。

日本で使用された最古のパドルが残っている?
幕末から明治に掛けて外交官として活躍したアーネスト・サトウ(英国大使館員)は、明治に入り東京・高輪付近に居住した。当時目の前は海であり、日本人を妻に娶り家族と共にそこで遊んだのだろう。当家に、パドルが所蔵されている。シングルパドルで、木製。形状はビーバーテイルの形をしている。紛れもなくそれは、OarではなくPaddleであった。愛用され現存するものでは、最も古いものではないか?使用時期と使用したカヌーは不明。年齢からして2度目の来日時に、そのパドルを愛用したとは考え難い。
サトウ在日期間:1862(19才)-1882,1895-1900
横浜開港資料館の特別企画“アーネスト・サトウ その時代と生涯”で展示された。
以上が横浜開港から明治初期に横浜に残された記録である。これらはカヌーが輸入物であり、外国人の趣味であったことが英字新聞より読み取れる。未開と言われる東洋の端の国において、楽しみの少ない彼らにとって貴重なレクレーションであったことは言うまでもない。
横浜開港資料館によると、横浜以外で当時外国人居留民たちでスポーツが盛んだったのは、神戸だそうです。興味のある方、調べられては如何でしょうか?
兵庫開港は1868年で、横浜に遅れること9年。この間の差は大きいと思われます。
しかし、1870年 Kobe Regatta and Athletic Clubや1871年インターポート マッチ〔横浜神戸の居留民達による交流試合(ボートレース・陸上競技)・横浜にて開催〕の記録をみると、ヒョットしたら最初の活字は神戸という可能性も残っています。
故に今のところは、カヌーを最初に日本に持ち込み、最初のパドリングをしたのは、横浜であると思われるのです。